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蚕糸業を裏から支えた『蚕卵紙(さんらんし)と蚕座紙(さんざし)』

蚕卵紙と蚕座紙生糸は明治~昭和にかけて日本の代表的な輸出品でしたが、それを『紙』が裏方として支えていたことは殆ど知られていないようです。養蚕の現場では様々な紙・紙製品が利用されてきましたが、その代表的なものが、4階第3展示室に展示されている「蚕卵紙」と「蚕座紙」です。

「蚕卵紙」とは蚕の卵を産み付けた厚紙で、「蚕種紙(さんしゅし)」「蚕紙(さんし)」とも呼ばれ、江戸中期には売買されていたようです。幕末にヨーロッパで蚕の伝染病が蔓延し、壊滅的な打撃を受けたことから、蚕卵紙は盛んに輸出されました。明治初期には輸出商談が活発となって価格は急騰し、ケシの種を貼り付けて売り捌く悪徳業者も現れたとか。取り締りと品質維持のために明治5年に蚕種原紙規則が制定され、手漉業者を免許制とし、長野県上田、埼玉県深谷、福島県福島に売捌所(うりさばきじょ)が設立されました。明治中頃には伝染病対策のために種紙をマス目に区切って番号をつけ1匹ずつ産卵させ、病原菌の有無を顕微鏡で調べました。明治8年にここ王子の地で機械による洋紙生産が始まり、中頃には紙の原料がボロ布から木材へと変化しましたが、この頃を境に蚕種原紙は手漉紙から機械抄きに変わっていきました。

ふ化した蚕は、従来稲藁を編んだ藁座(わらざ)などに移して桑の葉を与えましたが、明治末頃に洋紙会社からパルプ粕で作った「蚕座紙」を提案したところ、安価で便利で病害予防にもなるとして大歓迎されました。大正時代に入り養蚕規模は更に拡大し、蚕座紙の需要期には販売合戦が繰り広げられ、問屋は「散財紙」、「散々紙」と言って嘆いたそうです。

(解説ボランティア 山本清さん)
『紙博だより』第45号(平成23年1月1日発行)より再録

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