紙の博物館によく寄せられる質問をご紹介します。
紙の種類はとても多く、細かく分けると数千種類になるといわれます。何で作ったか(原料)、重さや厚さ、つくった地域(産地)など、その分け方にもいろいろあります。
紙を何に使うか(用途)によっても細かく種類が分けられます。その基本になっているのは、紙の主な3つのはたらきです。
①記録する:印刷をしたり、文字を書くための紙
②つつむ:ものをつつんだり、袋や箱に使う紙
③ふき取る:水や油、汚れをふき取る紙
みなさんの周りには、どんな紙がありますか?この3種類に分けてみましょう。
現在日本で作られている紙の原料は、60%以上が古紙です。つまり、原料の60%以上はリサイクルされたセンイが使われているのです。
紙をリサイクルするたびに、センイは少しずついたんで、弱くなります。これは、リサイクルする時に熱を加えたり、アルカリ液や漂白液などの薬品につけたり、巨大なミキサーで強くかきまぜたりするからです。
センイの種類やリサイクルの仕方にもよりますが、だいたい4~5回くらい紙(センイ)はリサイクルできるといわれます。
使い終わった紙は、また新しい紙に生まれ変わる大切な資源です。捨てないで、種類ごとに分けてリサイクルに出してくださいね。
フランス人のレオミュールです。彼は、ハチが木くずから巣を作るのを見て「木材が紙の原料になるかもしれない」と思いつき、1719年に学会で発表しました。
紙は、どんな植物のセンイからも作ることができます。ヨーロッパに紙づくりが伝わった頃は、衣服のボロが原料でしたが、たくさん集めることが難しく、いつも原料不足が悩みでした。木材であれば、衣服のボロよりも、かんたんに入手できます。しかし、木材を紙の原料に加工するのは技術的に難しく、実用化されたのは、それから100年以上たってからでした。
紙の「糸」は、「センイ」を表しています。そして、「氏」は、「平らなこと」を意味しています。
紙が誕生した中国では、この2つを合わせて、センイからできた平らなシートを「紙」と名付けました。
ダンボールは、明治時代、今の「レンゴー」という段ボール会社を作った井上貞治郎が考えた名前です。外国では、コルゲーティッドボード(波状の厚紙)と呼ばれていましたが、日本では「なまこ紙」、「浪形紙(なみがたし)」などと呼ばれ、決まった名前がありませんでした。国産の商品を発売するときに、よりわかりやすいように、また新商品であることを印象づけるため、「段のついたボール紙」=「段ボール」と新しい名前を付けました。
紙の表面は平らに見えますが、実は、植物のセンイが何層にも重なってできているので、拡大してみると凸凹しているのです。
その凸凹の表面に鉛筆をこすりつけると、鉛筆の黒鉛が削れて、文字を書くことができます。
文字が書けて読めるという状態は、繊維のすき間に黒鉛の細かい粒が入り込んでいる状態なのです。
凸凹がないフィルムには、鉛筆で文字は書けません。凸凹がなければ黒鉛は削れないので、文字は書けないからです。
ここに消しゴムをこすりつけると、ゴムが黒鉛の粒にくっつきながらまとまります。
消しゴムのカスは薄黒い色になるのは、黒鉛の粒が含まれているからです。
ペンで文字が書けるのは、紙の表面の構造が関係しています。
紙は植物のセンイが何層にも重なってできていて、このセンイは、ストローのような細い管の形をしています。
センイは、植物の中では水や養分を通すために管の形になっています。これが紙になると、つぶれてたくさん重なっているような状態になり、繊維同士の間にも非常に小さな空間がたくさんできます。
このような状態の紙の表面にペン先を置くと、毛細管現象といって、小さなすき間にインクが吸い取られていきます。そのため、文字が書けるのです。
筆記に使う紙には、通常はにじみ止めをしていることが多いのですが、にじみ止めの薬品を何も使っていない紙では、インクはにじんでしまいます。
庭先やベランダに置いておいた古新聞は、しばらくすると黄ばんでしまいますね。
これは「リグニン」という物質が原因です。身の回りの多くの紙は、木材のセンイを原料としています。この木材の中でセンイとセンイをくっつけている接着剤のような役割をしている物質を「リグニン」といいます。紙の原料を作るときに、このリグニンを取り除いてセンイを取り出します。
センイの取り出し方には2つあって、ひとつは木材を物理的に細かくすりつぶして取り出す方法、もうひとつは、木材を薬品で高温・高圧で煮て取り出す方法です。前者の方法で取り出したセンイを混ぜた原料の場合は、できあがった紙に、どうしてもリグニンが少し残ってしまいます。
このリグニンという物質は、光や空気中の酸素や熱の影響で変化するので、時間がたつと紙は変色してしまいます。
ノートやコピー用紙は、主に後者の方法(薬品で煮る方法)で取り出したセンイを使うので、黄ばみにくいと思います。
紙の種類や機械によって作られるスピードはちがいますが、たとえば、紙の博物館2階の展示室「紙と産業」に展示されている、933センチの横幅の紙(雑誌などに使われる塗工紙)の場合、この幅の広い紙が、1秒に30メートルのスピードで作られています。
紙は、中国で紀元前2世紀頃には発明されていたと考えられています。
紙づくりの技術は朝鮮半島を経て、7世紀までには日本に伝わったと言われています。『日本書紀』に610年、高句麗の僧・曇徴(どんちょう)が紙や墨を作ったと記されているのが日本の製紙に関する最古の記録で、場所などは記されていません。一説には、朝鮮半島から日本に来た渡来人によって、5世紀頃までには国内でも紙がつくられていただろうとも言われています。
年代のわかるもので、現存する最古の和紙は、正倉院に伝わる702年の美濃国、筑前国、豊前国の戸籍用紙です。
紙のサイズでよく目にするA判、B判というのは、JIS規格で決められている紙のサイズです。世界にはさまざまな紙のサイズがありますが、日本ではこの二つが一般的によく使われています。
A判は、もともとドイツで生まれた紙の大きさで、国際的に通用する標準規格です。ノーベル化学賞を受賞したドイツ人の科学者、F.W.オストワルド氏が発案しました。海外でもそのまま通用する書類のサイズとして、近頃は日本でもA判が多く使われるようになってきました。
一方、B判は、「美濃判」と呼ばれる日本古来の和紙の大きさがもとになっています。もともと和紙の産地として有名な岐阜県の美濃でつくられた紙のサイズで、江戸時代には幕府の御用紙としても知られていました。明治時代以降、一般の人々にも普及し、日本人にとって親しみあるサイズとなりました。
A判、B判は、紙の幅と長さの比率が1:√2(1.4142)の長方形です。面積は、数字が大きくなるたびに半分になり、この比率の場合、形は全て相似形になります。A列は、面積1㎡の「A0」を基本に、面積がその半分の「A1」、さらに半分の「A2」と続きます。B列は、面積1.5㎡の「B0」が基本になります。この1:√2は「白銀比」と呼ばれ、紙を無駄なく切り出せるだけでなく、人間が美しいと感じる比率だと言われています。
実は、「和紙」「洋紙」という明確な定義はありません。使われる場所や使う人によって、和紙・洋紙という言葉が何を指しているのかには違いが生じています。
一般的には、「和紙」は手すき・機械すき両方を含めて、楮(コウゾ)・三椏(ミツマタ)・雁皮(ガンピ)などの木の皮の部分のセンイ(靭皮センイ)を原料に使用してすかれたものを指しています。一方の「洋紙」は、木の幹の部分から取り出した木材センイを原料にして、機械で作られた紙を指していることが一般的です。日本で作る洋紙の原料は、6割以上が古紙のリサイクル原料ですが、これも元をたどれば木材が原料です。
和紙と洋紙の特徴的な違いといえば、この原料による違いが最も大きいと思います。ただ、和紙のような洋紙、洋紙のような和紙というような紙が、多くあるのが現状です。印刷に適している和紙もあります。一例として、日本の紙幣は大変丈夫で、緻密な印刷なども行われていますが、原料にはミツマタやアバカ(マニラ麻)などの非木材センイが使われています。これは和紙というのか洋紙というのか、明確には答えられません。
日本の和紙と外国の手漉き紙では、使用される原料、道具、作り方などに違いがあります。紙は、その土地で入手可能な原料、それに適した道具や作り方で作られています。
例えば、和紙はコウゾ・ミツマタ・ガンピなどの木の皮のセンイを使用したのに対して、ヨーロッパでは主に麻などでできたボロ布を原料に紙が作られました。和紙は一般にネリと呼ばれる粘液を原料に加えて、簀桁をよくゆする「流し漉き」という方法で紙の層を作ることが多いですが、ヨーロッパなどでは簀桁をゆすらない「溜め漉き」で作ります。できた湿紙の干し方も、和紙は板などに張り付けて乾かしますが、ヨーロッパでは、ロープに吊るして乾かします。
また、和紙と外国の紙の違いだけでなく、「和紙」と一口に言っても、産地や作る紙の種類で様々な違いがあります。
日本の洋紙発祥の地は、東京都北区王子と言われています。これは、明治6年(1873)に、渋沢栄一の主導によって、西洋式の機械で紙をつくる本格的な製紙会社である「抄紙会社(しょうしかいしゃ)」が設立されたからです。(抄紙会社の開業の前年、1874年に操業を開始した「有恒社(ゆうこうしゃ)」が、日本一早く操業した製紙工場になります。)
和紙と洋紙の生産量は、単純に比較できるような統計データがありません。生産額では、1912年(明治45・大正元)に洋紙の生産額が和紙に追いつき、翌年度以降追い越すようになりました。
和紙から洋紙への切り替えには、1904年(明治37)に始まった小学校の国定教科書の使用が影響していると言われます。教科書用紙が和紙から洋紙に切り替えられていきますが、活版印刷の普及とともに、以後印刷用紙としては洋紙が主流となります。
ただ、和紙は印刷や筆記に使用していただけでなく、ふすま、障子(しょうじ)、ちょうちん、傘などの生活用品やおもちゃなど、日本の文化の中で、ありとあらゆるものに利用されてきました。単純に、和紙が洋紙に取って代わられたのではなく、日本人の生活様式などの変化によって、和紙が他の素材に代わっていった、使われなくなったという側面もあります。
和紙が本格的に西洋に輸出されるようになったのは、明治時代です。
19世紀中ごろから欧米では盛んに万国博覧会が開催されましたが、このような機会を通じて、外国に和紙をPRしたりしました。厚手の印刷用紙である局紙、コッピー紙や典具帖紙のような薄紙、壁紙、ナプキン紙など、様々な種類の和紙が輸出されていました。
ただ、それ以前から和紙は外国でも知られており、有名な画家レンブラント(1606-1669)の銅版画なども和紙に刷られていることが知られています。