国東治兵衛著/丹羽桃渓画/海部屋勘兵衛版/寛政10年(1798)
紙漉きの技法は長い間各地で秘法として伝えられてきたが、この書は誰にでもわかりやすい図解の技法書として刊行された初めての出版物。著者である国東治兵衛は石見国遠田(現、益田市遠田町)の紙問屋で、イグサ栽培にもつくすなど産業奨励に力を尽くした人物。本書は英・仏・西・独の各国語にも翻訳されている。
壽岳文章著/昭和14年(1939)限定4部
題箋は新村出、台紙の紺染めは上村六郎、経師は浅田喜八郎による。昭和12年から3年間帝国学士院の推薦で高松宮家より有栖川宮記念学術奨励金を受け、全国各地の紙漉き村を歴史地理的調査旅行した際の報告書。この調査旅行は後に『紙漉村旅日記』として発表された。撮影した紙漉きの工程写真と、収集した見本紙を貼り込んで、限定4部のみを作った貴重本である。
関義城著/東京/昭和29年(1954) 限定100部
天平時代から昭和20年代までの手漉き紙354種を収集した見本帳。標本紙の内訳は陀羅尼一種、写経用紙26種、未加工の一般和紙252種、篠原朔太郎抄造和紙11種、加工和紙64種となっている。標本紙にはそれぞれの紙の原料と構成割合、解説を付記してある。これらの標本紙は、著者がコレクションした和紙を自ら断裁し添付したもの。刊行年代が明らかな世界最古の印刷物といわれる百万塔陀羅尼も、一行ずつ割愛して添付してある。本書の自序には、「実物見本が無ければ仏を描いて魂を入れないようなもの」と実物見本にこだわったことが記されている。
Engelbert Kaempfer translated into English by T. Woodward/London/1728
ケンペルは 北ドイツのレムゴー出身。オランダ東インド会社医師として1690年に来日、当時の日本を見聞して資料を収集し、帰国後も日本研究を続けた。没後、収集資料や原稿の大部分が英訳され、1727年にロンドンで刊行されるが、その翌年に新しい標題紙をつけ、製茶、製紙などが付録編として加えられ、改めて刊行されたのが本書である。楮とトロロアオイの図版を載せ、海外に初めて和紙の作り方を詳しく解説した文献で、和紙以外にも、日本の歴史地理、政治、風俗習慣、地方の産業など、それまで海外に知られていなかった日本の様子を克明に記述して西洋に紹介した。
Dard Hunter 著/Chillicothe, The Mountain House Press, 1932 限定200部
著者ダード・ハンターはアメリカ・オハイオ州生まれ。欧州各地で印刷技術、紙の歴史製法を学んだ後、世界の製紙地巡礼を重ね、数々の著作を発表した。その資料をもとに、1989年、アメリカ・マサチューセッツ州に「紙の博物館(Dard Hunter Paper Museum)」を設立した。Mountain House Pressは彼のプライベートプレスで、ここで自ら紙を漉き、活字をデザインし、理想的な本づくりを目指した。この本はその内の一冊で、中国、日本の古紙を添付。紙漉き工程図、製紙原料図、繊維の顕微鏡写真などが載せてある。
敦煌にて発掘/10世紀以前
イギリスの考古学者・探検家のオーレル・スタイン(1862~1943)は、1900年から1916年にかけて3回にわたり中国西域の遺跡調査を行い、特に敦煌で多数の仏画や教典を入手するなど多くの成果を得た。この資料も敦煌の莫高窟でスタイン調査隊が発掘したもの。
ドイツ/15世紀
中国で生まれた紙の製法がヨーロッパに伝わったのは12世紀のスペインが最初といわれ、その後16世紀までにヨーロッパ全土に広がる。15世紀のグーテンベルクの活版印刷機の発明以後、紙の需要が急増した。この地図は、手漉き法がヨーロッパに伝わった初期の頃の紙。
越前(福井県)/享和年間(1801~04)以降
模様を彫った型紙を紗に張って紙料を漉き、地紙の上に漉き合わせる技法で葵の模様をつけたもの。地紙、模様とも鼠色に染めた紙料で漉かれている。この技法を福井では漉き掛けという。
篠原朔太郎抄造/愛媛県/明治時代
篠原朔太郎(慶応元年・1865~昭和27年・1952)は、宇摩郡川之江村(現四国中央市)生まれ。幼少の頃より家業の製紙に従事し、和紙製造の技術改良につとめた。明治37年(1904)、アメリカのセントルイスで開催された万国博覧会で、篠原が出品した典具帖紙が一等金牌を獲得している。本資料のように、非常に薄い大型の典具帖紙にすかしを入れるのは、高度な技術を必要とする。
安部榮四郎抄造/昭和41年(1966)
一番上の着色模様和紙は、昭和天皇に献上するため漉いたときのもので原料は三椏。下は植物染料を用いた各種の染紙で、原料は楮や三椏・雁皮の各種で、板干しの長判の紙である。安部栄四郎(1902~84)は昭和43年雁皮紙づくりの技術で、手漉きの分野で初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定された。
神護景雲4年(770)
藤原仲麻呂の乱の平定後、天平宝字8年(764)、国家安泰を願う称徳天皇の発願で木製の三重の塔が百万基作られ、770年に法隆寺、興福寺など10大寺に奉納されたもの。 百万塔は塔身部と相輪部からできている。塔身の上部に丸穴が穿たれ、そこに陀羅尼一巻が納められた。陀羅尼は一種の呪文で4種あり、写真は自心印陀羅尼である。他に当館では根本陀羅尼を収蔵している。刊行年代の明らかな、現存する最古の印刷物の一つといわれる。
天正4年(1576)
宮廷で雑事を行う下級官吏(職事)が叙位・任官などの勅命を上位の公家(上卿)に伝える文書。本来は職事のメモであったので漉き返し守が用いられた。大法師佐賢を権律師に任ずる宣旨。ごみが多く認められる漉き返し紙が用いられている。 (翻刻)「上卿 勧修寺大納言」/天正四年正月八日 宣旨/大法師佐賢/宜令任権律師、/蔵人頭左近衛権中将藤原親綱奉
享保6年(1721)
老中戸田山城守忠真を通して発行された黒印状で、端午の節句の祝に、仙石信濃守政房より八代将軍徳川吉宗へ帷子と単物を贈られたことに対する礼状。黒印状は、墨色の印肉で押した公文書である。 (翻刻)為端午之祝儀、/帷子単物数之/到来、歓思召候、/於戸田山城守可/申候也、/五月三日 黒印「吉宗」/仙石信濃守とのへ
明治時代初期
明治初期に創業した製紙会社、抄紙会社、有恒社、パピールファブリックの販売日記、建築費、外国人との往復文書、製造機械類の記録である。
製図:EASTONS & ANDERSON ENGINEERS & co./1874年/縮尺:1/8
抄紙会社創業当時の設備・機械のオリジナル図面7点のうちの1点。明治7年(1874)、抄紙会社の工場起工に合わせて、抄紙機をはじめとする諸機械がイギリスから輸入されたが、当図面は、イギリスのイーストンス&アンダーソン社によって製図された当時のものである。日本の洋紙製造業発祥を伝える貴重な資料の一つで、2007年度産業考古学会から「推薦産業遺産」に認定。
板谷絵所写/江戸時代
王子権現社(現王子神社)の由来を絵巻物に描いたもので、寛永11年(1634)、三代将軍家光が社殿を造営するのにともない奉納された。林道春(羅山)の撰文、狩野尚信の画、鈴木権兵衛の書で詞書と画の部分から構成されている。原本は万延元年(1860)に焼失しており、この資料は江戸時代後期の模本で、昭和62年(1987)北区の有形文化財に指定された。
山本琴谷(やまもときんこく)写/江戸時代 文久年間(1861~64)頃
天保15年(1844)に津和野藩御絵師であった狩野派の画家、岡野洞山によって描かれた「製楮図鑑」(東京・特種東海製紙株式会社蔵)の模本で、原本の最後の部分にある、荷造りした紙を藏に運び込む場面が欠けている。詞書はないが、石州(島根県)における紙漉きの工程が細かい部分まで良く描写されている。山本琴谷(1811~73)は津和野藩士。
橋本周延画/小林鉄次郎発行/明治21年(1888)
明治天皇は明治9年(1876)4月紙幣寮抄紙局(後の印刷局抄紙部)と抄紙会社(後の王子製紙王子工場)へ行幸された。天皇の右下にレンガ造の製紙工場があり、白い煙を上げる煙突が見える。明治期以降に飛鳥山を描いた錦絵等には製紙工場が描かれていることが多い。
床次正精(とこなみまさよし)画/明治13年(1880)
三田製紙所は鹿児島県人の林徳左衛門(当時米穀取引所頭取)が、明治8年(1875)東京市芝区三田小山町に設立し、地券用紙を製造した。この油絵は、明治13年に真島襄一郎へ工場が譲渡された際に、林と同郷の床次正精(1842~97)に記念として描かせたものである。明治初期の油絵としても評価が高い作品。